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個人における公共              [民主主義の原理運動]


 公共を論じて政権の在り方として出てきたのが、共産主義だろう。 間に社会主義があり、端に民主主義がある。  おかしなものだ、究極の民主主義が、共産主義ではないのか。  共産主義とは、具現してみれば全体主義であり、専制であり。  超官僚国家、そのものだ。  専制全体主義国家と民主主義国家、これに加えて統制経済と自由経済の違いで。 共産圏に、勝ち目はない。 

 白い猫でも黒い猫でも、ネズミを捕る猫は、良い猫だ。 この妙な三段論法で、中国は生き残る。 日本と中国を合わせて、東の力とするならば。 韓国や台湾などなど含め、勢い(momentum)では西に対して明らかに優位だ。  文化の中心にいたはずの中国が民主的選挙も与えられず、ぶざまな様を見せてのたうつのなら、これは近代における先達である日本に責任がある。 東夷としていかんなく影響を発揮し、静かに中心に居たいと言うのが、日本の野心である。

 公共を言うのなら、その公共の場でどのように振る舞うかが肝要だろう。 東ではこれが足りない様だから、まずそこから直したい。 個人の公共心は、行政の負担を軽くする。 そこで初めて、真の行政改革が進むように思う。 みなさんの国と言うものは、多かれ少なかれ。 ろくでもない。 


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