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病院の坊主とオカマ              [才蔵]


 少し年上の知人が居た。 一時期、友人としてもいいようなやり取りがあった。 その時期、深い話も出来るかけがえのない存在と感じていた頃。 彼は、坊主になった。 八十年代後半の事と、記憶している。 ああ、またそこに逃げたか。 正直、そう思った。 同じく深い話の許された二人の友人はそれぞれ、新興宗教のグレーゾーンに居るものとキリスト教に帰依した。 楯も持たず、思うところを外連味(けれんみ)なくぶつける。 セメントの相手が、居なくなった。 帰依するとは、全て分かった(かのような)立場から相対そうと言う事で。 フェアなやり取りは、無くなる。

 教祖の日蓮の映画だと言って、中村なにがしの映画を見せられた。 日蓮の凄まじさについて、異論をはさむつもりはないが。 映画を見た印象は、人が死にそうだからと言って枕元で必死にお経を唱える坊さんと、上人様とホモのようにまとわりつく弟子だった。 

 坊主とお経は、人が死んでからのものだろう。 いまや葬式産業と化した日本の既存仏教界、坊主が屏風に、、、ではなく、坊主が病院に居たら、どう感じる? あの頃の仏教は、生きていたのだと。 うらやましく思う。 しかしこの知人の坊主は、他宗派でも頼まれ葬式坊主をするという。 

 先述したが、日本仏教は浄土真宗を除き明治まで妻帯が許されず当然、世襲も無かった。 ひとケタの年の頃から、男ばかりの世界だけで生きる。 業、カルマ(karma) がオカマになっても、不思議は無いような気がする。 その件の知人によれば、額に入った言葉に、いやに肉欲の戒めが多いと言う。 人里離れた男だけの社会でどうして、ことさら淫らな行いを戒める言葉が続くのか。 


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