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四年経っても、そのまんま              [懲戒免職]


Archives of my own http://archivesofmyown.blog.so-net.ne.jp/ より

08/1/2(水) 午後 10:56 [ 懲戒免職 ]
 世の中にとってなくてはならない 『公僕』。 皆から一目おかれる言わば聖職。 これが然るべきありようだ。 あまりにかけ離れた現状。 「矯正」 は全体に対して必要なのだろう。 そして役人と呼ぶべき上級の者は必要に応じて 「粛清」 されるべきだ。 公僕全体の姿勢を厳しく正す為に。

08/1/2(水) 午後 11:11 [ 懲戒免職 ]
 公僕を統御するのは、本来 国民。 実際のところは国民によって選ばれた政治家によって掌握される。 これが我が国の主権在民のしくみのはずなのだ。 今 政治は行政を掌握しているか? 公僕を統御しているか? 現政権にそのような志は感じられない。

08/1/2(水) 午後 11:23 [ 懲戒免職 ]
 内閣による行政の統御は、言わば国政選挙を通した間接統治だ。 主人はもちろん国民。 この主権在民を保障するのは 「選挙における投票」、この一点に尽きる。 お役人は選べないが、政治家は選べる!


注記:
このコメントを掲示板にあげた時は、四年近く前、自民政権の末期の始まりだったが。 これが民主党政権に代わっても、まったくそのまま言えてしまう事は、わが日本の不幸。 霞ヶ関を、統御せよ。 国の中枢が腐って、いったい何が出来るか。  



 原発を廃止する              [才蔵]


 メルトダウン、メルトスルー  水素爆発に、ベント  炉心冷却やら、シーベルト に ベクレル   よく日本人は短い間にこれだけ勉強したものだ、と思う。

 福島原発事故以来、我々日本人は、原子力について学び。 いかにこれが 不遜な文明であるか、多くの者が認識した。 廃棄物については、これまた自然の力である半減期だけに頼った、まことにお粗末な自然に対する礼儀作法だ。 日本人は、究極の生もの 電気 を 無自覚にむさぼっていた生活を見直した。  
 
 原子力をエネルギーとして求めない。 ポスト近代の、日本の文化だ。 



いの一番マター : 経済          [おかしな帝王学]


 仕事の疲れでぼっとしていたりすると、ギリシャはユーロ圏から離れてドラクマに戻ればいいのではないか。 などと思ってしまう。 しかし経済力の違う国を一つの通貨でまとめてしまう、という。 これがそもそも、おかしいのではないか? 経済でまとまろうとすれば、国でいられるはずがない。 通貨、つまり経済の礎から統合に向かったヨーロッパ。 西洋、白人社会。 

 彼らの一番の関心が経済であったことは、もはや人類の不幸なのである。 



固定資産税のとられ過ぎ              [友人への手紙]


 先ほど、録画してあった報道番組を見ていましたら。 なかで固定資産税の税額についての話がありました。 普通の倉庫と冷凍倉庫の違いで税額に差が出て、それが税収の上がるほうに間違っていたという話で、ディズニーランドの魔物のように税だけをむさぼり食らう官僚機構をイメージする身としては、税収の下がるほうに間違っていた例がどれだけあるのか追求したくなります。 単なる、間違いでしょうか。 倉庫の種分けをしていたのも、税で禄をはむ者たちです。

 このような例をあげつのっていけば、消費税で言えば平気ですでに 2、30% 程、負担している事になるのではないかと考えます。

      2011年11月5日 土曜日 午後7:54



ベトナム戦争と " The Rock Music "              [近藤 武]



 レコード、放送といったメディアを使って。 1955 年、昭和30年に産声を上げた " The Rock Music " は凄まじい社会的影響力を持つようになった。 King Crimson, Led Zeppelin, Chicago, Yes などが世に出てきた 1969 年を、このピークと言っていいだろう。 

 The Beatles の アルバム、Let It Be、 Abbey Road。 King Crimson の In The Court Of The Crimson King。 The Rolling Stones の Let It Bleed。 などなど。 彼らの達した境地と、現在はやっている音楽とは。 全くの、別物である。 いまのは、コマーシャリズムが作り出した張りぼて、みたいなものだ。 

 考えれば、1969 年を ビッグバンのようにむかえたあのムーブメントは 65 年あたりから始まり、75 年に終息した。 奇妙にインドシナ半島への米国の介入、つまりはベトナム戦争の期間と一致する。 ウッドストック をやらかした、" The Rock Music " のパワー。 我々がいまもあい対峙する、巨大な化け物とがっぷり四つに組み合っていたような気がする。


参照:
《 軽井沢で自転車に乗っていた John Lennon 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2010-05-10



落ち葉は ゴミなのか          [箱根アフロディーテ]


 イカ 汁のついたスーパーのラップと、木々の落とした落ち葉を同じものと感じる感性は、信じられない。 一緒にして燃やしている。 利用の方法は無いのか? 真剣に考えてみたか?  
 こやし、糞尿しかり。 きっと、生ゴミしかり。 人類何千年と蓄えたものを、外方向性知的好奇心のおもむくままに手に入れたマスの欲望で、ただただ汚いものとして力技で自然に帰す。 

 肥やしまで、工場 factory でつくられた資本主義経済が差し出すものに依存しきっている。 落ち葉、生ゴミ、糞尿。 これらを、かつてやっていたように徹底的に利用できないだろうか。 



日米関係でメシを食ってる人間と TPP


 防衛、軍事について、その必要性、重要性を強調する人たちがいる。 彼らは、「すでに軍事で物事を解決できなくなっている、どことドンパチやるつもりか?」 と問えば、決まって抑止力だと答える。 そして続けて、「アメリカなどはその圧倒的な軍事力を背景に、あらゆる交渉事を有利に進めているでしょう。 日本で平和ボケしてると分からないかもしれませんけど、世界というのはそういうものなんですよ。」 と レクチャーしてくれる。 間抜けと言わんばかりだ。 

 さて、連日にぎわっている TPP 交渉参加の是非について。 この方たちが日本の国益を考えて警告するのを、聞いた覚えがない。 あまりに訳の分からない TPP 交渉への現時点での参加表明は、つまりは 間抜け ということではないのか?

 なかには同じ口で、交渉参加をせき立てる者もいる。 岸や正力の末裔か? 評論家、政治家などと肩書きがついているものの、要は 「日米関係でメシを食っている人間」 なのだろう。 いったいどこの国の人間か。



無条件降伏              [文化の日]



 日本にとっての外国は、長く中国、朝鮮だった。  ルネッサンスをむかえ、ヨーロッパからポルトガル・スペインがやって来た。 覇権はイギリスに移ったが、西回りで日本に先んじたのは、アメリカだった。 世界のパラダイムが植民地主義から帝国主義になり、産業革命が起こり、資本主義が大輪の花を開かせ始めたころだ。 まさにアメリカ流の直球勝負に、日本は上へ下への大騒ぎとなり、明治維新が起こる。 

 帝国主義パラダイムの世界にデビューした日本は、たった何十年かで列強の末席に座る。 やはり列強では後発のロシアに日露で勝利するのだが、これは黄色人として東洋として初の事だった。 いい気になったのかもしれない。 明治維新でつくられた官僚機構は、軍部官僚がだんごになってもろとも第二次大戦に突入する。 これが日本建国以来の危機をもたらした。 都市のど真ん中、市民の日常の頭上に二度も核爆弾を落としたのは、またもアメリカ。

 対米無条件降伏、この意味を現代日本人はよく考え直す必要がある。 日本が初めて、それも完膚なきまでに負けたのだ。 紳士的な占領統治の陰には、何があっても不思議はないのではないか。

 このような因縁により、日本にとってのヨーロッパ、西洋は。 多くアメリカなのだと思う。 経済と、そしてやはりいまだに軍事力だとしてはばからない人たちなのだ。 これに中国がまたホイホイと、おびき出されて土俵にのっかっている。  世界を覆いつくす 閉塞感だ。



参照:
《 紳士的だった占領統治 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2011-04-19-1


日本の貿易              [文化の日]



 少し日本はこれからの貿易のあり方などについても、一家言もつべきではないのか。 では中国流に従うのか? などと。。 米国流でも中国流でもない、日本流があって 何故 まずいのか。 これまで先進国といえば西洋であったが、いまアメリカもヨーロッパもおかしくなっている。 経済を第一義とし、その前には自然を軽んずる。 もう彼らのこれまでのパラダイムでは、世の中まわらないのだ。

 日本は、東洋、黄色人種として初めて近代世界で先進国の仲間入りを果たした。 ここ二百年ほどは、中国も目ではなかった。 天がなぜ日本にこの役を与えたのか。 外方向性知的好奇心の成果を積み重ねた、西洋近代科学テクノロジー。 これを受け継ぎ、東洋の先駆者として 1969 年以降の世界を安んずるために我が国はあるのではないのか。 


参照:
《 必要な 貿易 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2010-10-24



日米両首脳、満面の笑み。


 日米の国旗を背に、オバマ大統領と野田総理。 これを拝見するのは、二度目のような気がする。 今日は何が楽しいのか両者、満面の笑み。 こぼれんばかりの笑顔だ。 前回は、叱責、恫喝するような殺気立った大統領の目線に、凍りつくようなこわばった表情の総理だったような記憶がある。 これが確かとすれば、オバマ氏は分かりやすい。 再選の基盤が固まったと、役満でもテンパイした心境か?



たかが駒に 思い入れを持つな          [おかしな帝王学]


 語る、語る。 カタルシス。
 語るをやめれば、我 死すなり。

 民主主義の原理運動とは、大きな盤面に向かって政治家という駒で将棋を指している我々、のようなものだと申し上げた。 一つの駒に思い入れをする必要など何もない。 しかし現在の、少なくとも日本における民主主義とは、たかが駒を頭の上にいだき。 角行をいだいたものは、X にこだわり。 飛車をいだいたものは、+ にこだわる。 

 民主主義は、選挙だ。

 利害、つまりは経済、金の話。 仕事、雇用と言い換えてもいい話で、肝心かなめの選挙が決まっている。 こんな業界がというようなところも、組織系投票依頼で国会議員を一人や二人送り出しているという。 卑しいことだと思う。 このバイアスがとれればいい。 目先の自分にとっての利益で投票する人間が、この日本でどれだけ減るか。 最先端の先進国はこうあるべきと、アメリカにもヨーロッパにも中国にも、ぶれずに語り続けられる日本でありたい。 


参照:
《 問われるは、民度 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2011-06-13


ずんどう型の人口構成を、目指す              [文化の日]


 
 生きている事の不思議を思えば、なだらかな二等辺三角形になるのだろうが。 理想、目指すべきはずんどう型の人口構成なのだと思う。 高齢者の多い頭でっかちな人口構成はおかしいし、逆もおかしい。 日本の例で言えることは、戦争がバイアスをかけた。 

 いくつになっても、社会と関わりを持ち貢献する。 自分の足で立ち、行動する。 明晰な意識を持ち、よどみなく話す。 ただ心臓が動いているのではなく、この状態をいかに死の直前までもたらすかに日本は、国家のプロジェクトとして取り組むべきではないか。



参照:
《 日本の道、其の 一 。 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2011-01-13


 各省のご理解が得られない              [懲戒免職]


 先の事業仕分けで名を馳せた、蓮舫女子のメディアにおける生発言だ。 『 朝霞の公務員宿舎 』 に代表される、事業仕分けで凍結と決定を見てもほとぼり冷めれば またぞろ復活という、役人の二枚腰、三枚腰の抵抗。 この霞ヶ関の振る舞いについて 「 各省のご理解が得られない 」 とは、何たる言い草か!

 下の世話から、生理用品の調達まで。 例えれば、こんなものまで全て役人に、霞ヶ関に依存した政権であるから出てくる発言ではないか。  

 野田総理直々のアイデアでわざわざ 提言型 とあらかじめエクスキューズを入れている今回の仕分け。 メディアと それを通じて情報を得る国民がしっかりとしつこく見ていかないと、パンとサーカスの サーカス でまた終わる事は必至だ。  「、、、とすべきと思います。」 の域を決して出ない。 なぜ、法を作らないのか。 それが立法府、つまりは国会、国会議員の本来の役目ではないか。 

 化け物に成り下がった霞ヶ関の主たる仕事とは、国民を欺き、出し抜くことだ。 彼らの仕事が それ なのだ、と言えば言い過ぎだろうが。 霞ヶ関で上に行く、「 出世 」するためには それ が必須なのだと思われる。 これを正すのは、政権。 他の誰も、立場上これを成し得ない。  

 こんな状態で増税議論など始めていいのか?




保守とは何か? #2


 前にもふれた東京ローカル、MXTV の座談において日本の 「保守」 についての面白い見解があった。 

 十八世紀後半、 1776 年に建国された米国。 世界でも新しいこの国の歴史感覚に抱きついて、歴史感覚を保持しようという。 それも、世界最長の歴史を誇るわが国の、保守。 この矛盾についての指摘は、わが意を得たり、だった。

 我が国に現存する保守とは、いったい何なのか?


参照:
《 保守とは何か? 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2009-08-03


読売というメディア          [天成人後]


 清武氏と渡辺氏の泥仕合に関連して、スポーツジャーナリストの玉木氏が面白いことを言っていた。 「 読売というメディアは読売交響楽団を持っているので、音楽ジャーナリズムがそこには無くなる。 同じように、ベースボールジャーナリズムも 読売には無い。」 たしかに今回の騒動も読売新聞は正面から取り上げていないらしく、渡辺会長のロングインタビューはライバルの朝日新聞に掲載されている。

 ジャーナリズムが無いのなら、音楽も野球も大いに扱っている読売新聞紙面に踊る活字は いったい何だろう? PR 、宣伝、プロパガンダ、だろうか? 渡辺恒雄氏の先達である 正力氏が戦後、原子力推進の先頭に立ち、読売新聞が社を挙げて核平和利用キャンペーンを行った事を ふと思い出す。 日本人は、五十年前とどれだけ変わったのだろうか。 いまだ踊らされ続けていないか?

 読売新聞の社説には渡辺会長の意にそぐわない内容が載ることは無い、と公言する。 つまり、事はクラッシク音楽や野球にとどまらない。 肝心の 「 政治 」 を報道するにふさわしいジャーナリズムスピリットを、読売というメディアが有しているかということだ。 はなはだ疑問を感じる。 これが日本一、世界でも一番の発行部数を誇るトップメディアだというのだから、わが国の憂鬱も深い。


参照:
《 敗戦とメディア 》
http://okashina-teiougaku.blog.so-net.ne.jp/2009-05-08


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