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橋下・大阪知事              [おかしな帝王学]


 当初、自公の支援を受けてと聞いて、どんなもんだか と思っていたが、その後の 霞ヶ関 との対決姿勢を、好感を持って見ている。 地方分権を訴えているが、それは「霞ヶ関解体」と同義である。 
 彼は、「選挙で、地方分権(霞ヶ関解体)をおし進める国会議員を選ばない限り、決定的な打開策は実現しない」と述べている。では、自公政権にそれが出来るとでも お思いだろうか。そんなはずは無いと思う。

 麻生政権の姿勢を見れば、事務次官等会議の機嫌を損ねないよう、まことに見事な ウルマー ぶりだ。 鎧(よろい)のようにへばり付き、あくまで官僚機構の現状を守ろうとする政権与党。 
 この姿勢に対し、いつ正面きって批判をするのか、大変 興味深く見ている。


東国原・宮崎知事


 反権力の団塊世代とも映る 北野たけし の子分筋なので期待も有るが、知事になってもどうも芸風そのままの 直球を放らない感じがいただけない。 思うに、偶然なのだろうが、あまりにタイミングよく就任初日に起きた 鳥インフル 事件でビビッてしまったのではないだろうか。 

 行けそうだったら行く。 それもいいが、余りに自身かわいさで、誰かが行けば即スリップストリームに入り、国立競技場に入ってから追い抜いて なんて考えているとしたら、それは改めた方がいい。 そろそろ国のあり方に対して、はっきり物を言い始めるべきではないか。 
 先頭に立ったらどうだ。


敗戦と独立              [おかしな帝王学]


  日本の敗戦を少し軽く考えているのではないかと思う。 
我が祖国日本はそれまで一度も負けた事はなかった。 それが尋常ではない負け方をした。 人類史上初、原爆を二度までも落とされ。旧日本軍が牛耳る、気の狂った日本は負けを認めた。

 負けた相手は、かつて西洋の植民地の国。移入西洋人による独立を勝ち取り、現地国の政府がアメリカを名乗ってから一世紀半余り、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。 西洋文明の最後に登場した巨大なモニュメントのようなこの国は、たとえ建前でも ”自由と正義” を掲げる理念の国で、日本の占領統治にあたっても 歴史的にみて比較すれば文明的な対応をした。 
 しかし忘れてならないのは、この国に無条件降伏したと言う事だ。 何をされても仕方ありませんと負けた。 占領の終わる昭和27(1952)年までに何をされたのか。それは洗練された形でその後も今も続いているのではないのかと。 文明的な手法に敬意を表しつつ、知ろうとする必要がある。 

 いまこの日本の うねり のようなものは、独立運動である。
 
 日本という国が戦争で負けたという事の総括が、日本人の手によって成されなければならない。 日本にとって何が今あやうい事になっているか。 何を取り入れ、何を捨てるべきか。 日本人自身が判断しなければならない。 


敗戦とメディア


 戦争中、当時のマスメディアである新聞は大本営のプロパガンダ機関のようになっていた。これは消えてしまったかつて日本にあった新聞社の話しではなく、今もある大手の新聞社の話しである。戦意高揚の論調でないと不買運動のターゲットになるという事もあったらしく聞くが、ジャーナリズムの心を売り渡したのだから、よく平気で同じ看板を掲げ戦後を生き抜いてきたものだと思う。 ナチスのドイツでももちろん戦争中は新聞がナチスのプロパガンダに利用された、しかし戦後 すべて解体された。
 今もそのまま残る戦争翼賛報道を行った日本の大新聞、この点について総括を行ったと聞いたことは無い。 

 終戦時、天皇制が残った。これはよく聞く話。 もうひとつ、官僚機構は軍部を切り離し、そのまんま残った。 これが今の霞ヶ関の問題につながる。
 そしてさらにもうひとつ。 マスコミ(新聞)もそのまま存続した。戦争責任を問う代わりに飼い慣らす、占領側はこれが得策と見たようだ。 メディアは1951(昭和26)年に民放ラジオの開始、そして1953(昭和28)年からは民放テレビ開始となる。 これらは系列という形で、新聞の時代からのつながりがある。
 
 つまり戦時中は臆面なく戦争翼賛報道をした大新聞が、敗戦後は占領側の思惑でそのまま残され、関連会社として今日テレビメディアの運営に関わっている。 


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